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概要

takeo-jc

立したら発展しないという事が根底にあった。何とか方法をもって和解をやろうと。政治経済も然り、まず文化活動をやろうということで武雄にやまびこコーラス、演劇サークルのピープルを作って、若い人たちが集まってやるというのが基盤にあった。そんな時、久留米で日本青年会議所の九州大会があって、どういうものなのか、東京のクラブがどういう事をやっているかと何人かで見に行った。行ったら凄かった。みんな運転手付きの車で来るし、奥さんたちは和装、メンバーは蝶ネクタイ。これは無理だ。武雄は仲間に入られん!武雄独自でやっていこうとしていたら1年後に、東京から貴会は青年会議所と名乗っているのに何で日本青年会議所に入らないのかといわれた。その時、佐賀で入っていたのが佐賀青年会議所だけだった。福岡は小倉・久留米・福岡、いずれも理事長や幹部は同年代。我々は、武雄市の事について侃々諤々やっていた中で3年後には市議会議員の選挙があった。そこでメンバーの中から市議会議員を出そうという事になった。それが大変な事で、メンバーの内4人のお父さんは、現役の市会議員。我々の同志から2人出す以上は、親の加勢をしたらいかん!!年齢は、いずれも31歳、32歳ぐらい。24~25人のグループだけど、死にもの狂いでやったら2人共当選した。佐賀県中で騒ぎになった。武雄から若い議員が2人当選した。その時は日本青年会議所に入る前で、選挙の時は青年会議所の名前は出さなかった。そうしている内に、武雄市民を元気づける事をしようとなって、大相撲を呼んできた。四横綱時代で若乃花、栃錦、??葉山、千代の山。地方巡業で来て、幹事元と青年同志会として競輪場で行った。大相撲をやるのは大変で、一ヶ月前から土俵作りをやる。とび職とか土建屋を集めて競輪場にスタンドを作ることができた。当時、九州場所がないから、長崎・福岡から大入満員興行の収入がいくらあったか知らないが、100枚ずつ売ってこいとなって、当時は一ヶ月、自分の仕事はしなかった。そして大相撲は成功した。武雄の青年はすごい!これは大変な力になる!と、武雄の年寄も一目置くようになった。そうしているうちに、10年が経ち其々の会社が忙しくなり、池田内閣の時で、倍増論等があり活動する時間がなくなった。毎月の例会もなくなっていた。そんな中、武雄市は市街地再開発問題を掲げ、九州経済調査協会へプランを依頼した。その委員の一般社団法人武雄青年会議所創立50周年記念誌18